高校時代、バスを待つ間のひまつぶしに寄った本屋さんで購入。
サラリーマン向けの軽い読み物 といった感じのトピック・構成なので、
週刊誌を手に取るようなラクな気分で読める。
ただ、純朴な高校生にとって、やや品位に欠ける表現もあるが …
私に、自分なりの“考え方の癖” があるとすれば、
この本は その源流の1つになっているのではないかと思う。
それまで “詭弁” といえば、「へ理屈」
というイメージがあったのだが、
著者は言う。
「詭弁は程度の差こそあれ、どんな弁舌の中にも必ず含まれる」
と。
それが本当なら、ワタクシ達が言葉を用いているときは いつも
「
詭辯を弄して」いることになる。
まるで メルヘンかファンタジーのような、すぐには信じられない話だった。
でも、ちょっとだけ ワクワクした。
仮に、 すべての言説に詭弁が含まれる とすると、
今、もっともらしく語られていることは全部、[ こじつけ ] にすぎないことになる。
これは、とても ありがたかった。
「偉そうに言ってるけど、所詮 こじつけ だろう」
と、古い権威を 簡単に否定できるのだから。
ただ、“詭弁”は、両刃の剣である。
「どんな弁舌にも必ず含まれる」 のだから、
相手を否定できるかわりに 自らの説も いっさい保証してくれない。
そのようなマイナス面があるにもかかわらず、
今でも この 『詭弁の話術』 はワタクシのバイブルであり続けている。
それは たぶん、この本が
「言葉 は ものごと そのもの ではない」 ということを
改めて気づかせてくれるからだろう。
言葉 は ものごと そのもの ではない。
バカバカしいほど当たり前のことだ。
けれども、時々 ワタクシ達は、
言葉を まるで ものごと そのもの のように感じてしまうことがある。
例えば、「ゴキブリ」 と聞いただけで 身震いしてしまう時のように。
ワタクシ達の中では、言葉 と ものごと そのもの が つながっている。
“詭弁” は、そのようなヒトの特性に注目して、
“言葉 ” を変えることで、まるで “ものごと そのもの” が変わったかのような錯覚を
ヒトに あたえようとする。
言葉が多義的である(言葉の数は ものごと そのもの の数より少ないから仕方がない)
ことを利用して意味をスライドさせ、
意図的に誤解をあたえようとするのである。
例えば 「レディースの総長」 と言う代わりに 「活発なお嬢さん」 だと紹介するように。
そういう意味で詭弁は、“言霊“や“暗示”に似ている。
言葉 は ものごと そのもの ではない。
そのことは また、ワタクシ達に希望をあたえてもくれる。
詭弁を弄しても 貧乏人が金持ちになれるとは限らないが、
「貧乏だから不幸だ」と言って悲しむ気持ちは、なくすことができる。
“不幸” という言葉によって表わされる状態や、
“悲しい” という言葉によって表わされる状態は、
本当はないかもしれないからである。
もしあったとしても、名前を変えてやれば
少なくとも、不幸でも 悲しくも なくなる。
今の状態を わざわざ不幸と名付けなければ、不幸だと思うことはできないのである。
かなり強引な [ こじつけ ] に思われるかもしれない。
しかし、
自分の都合のいいように“解釈”できる
それが詭弁の いいところでもあるのだ。
言葉に遊ばれるのをやめて、
言葉で遊んでやればいい。
著者が、詭弁を駆使して
ワタクシ達に伝えようとしたのは、
「詭弁を弄して相手を攻撃せよ」 ということではない。
“人間愛”というと大袈裟になるけれど、
「言葉は どのようにでも解釈できるのだから、良いように解釈しようよ」
「言葉が持っているパワーは、元気になるために使おうよ」
「こじつけ でもいいじゃないか、自覚していれば」
そう言っているような気がする。
拡大解釈かもしれないが、
ワタクシは この本を そのように読んで、いつも勇気づけられている。
追記:
近頃は、すっかり “やさしいおじいちゃん” になられたが、
当時の“ダンディなオジさま”然とした著者のルックスは、
この本の文体と内容に非常にマッチしている。
ワニの本 『詭弁の話術』 阿刀田 高 KKベストセラーズ
1974年7月10日 初版発行
1984年3月10日 46版発行
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