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砂漠の九官鳥

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「読書百遍」

 「読書百遍 意 おのずから通ず」
 という ことわざ が ある。

 今の言葉に直せば、
 「本は 何回も読めば 意味が自然にわかる」
 ということだ、と教わったような気がする。

 「そのとおり」という気持ちと
 「それはナイな」という気持ち
 両方 感じる。

 再読して、「あぁ、そういうことか」と、ピンとくる場合と、
 何回読んでも ぜんぜん わからない、という場合、
 どちらも経験があるから。

 もともと、この言葉のルーツは、
 『三國志 魏書 王粛傳  註裴松之』
 に出てくる 董遇 という人の言葉、
 「讀書百徧而義自見」
 (どくしょひゃっぺん しこうして ぎ おのずから あらわる)
 にあるそうな。
 さっき調べて はじめて 知った。 
 
 
 何回も読んでいるうちに 意味が わかる ようになる場合、
 以下のような理由があるだろう。

 ○ 最初は「この作者 やたら“そして”が多いなぁ」 などということが
   気になったりするが、何回か読むうちに 慣れてきて
   注意が内容のほうに むかう。
  
 ○ 脳みそ が、一度に たくさんの情報を さばけない。
   何回も読んでいるうちに、少しずつデータが たまって、
   意味が わかる ようになる。
  
 ○ 読むこと自体が 考えることに つながる。
   (刺激に対する反応として)
   何回も読めば、考えるチャンスも増える。
 
 などなど。
 次に、何回読んでもイミが わからない場合。

 ○ 専門用語が多すぎる など、わかりやすく書かれていない。
   作者が「オレがわかるんだから、読者もわかるだろう」
   と思っている。
 
 ○ 最初に読んだ時おもしろくなかったので、
   まともに読む気が しない。

 なんだか、自分の文章の悪口を言ってるようだが
 まぁ、その他 まだまだ理由があるだろう。


 董遇という人は、中国版 二宮金次郎 といえるような苦労人らしくって、
 (年代順からすれば、二宮さんが 日本版 董遇 なのだろうが)
 畑を耕したり、品物を売り歩いたりしながら、
 時間を見つけて本を読んでいた そうな。

 そういう ご自身の経験からすれば、
 安易に「わからない」などと言ってほしくないだろうし、
 簡単に「わかった」とも言ってほしくないのだろう。
 「わかった」とか「わからない」とか言えるほど、しっかり読んでいるのか、と。


 身近に 「本は1回しか読まない」 という人がいる。
 ナンデ?と聞いたら、
 「2回目読んでも内容が変わらないから」 だという。

 まぁ たしかに、1回目も2回目も、
 書いてある 文字 は変わらない。
 しか~し、だからといって「内容が変わらない」とは、
 南都もったいないことを言うのか。

 断言しよう。
 1回目と2回目では書いてあることが変わっている。
 う~ん、ちょっと言いすぎか

 文字などというものは、紙についたヨゴレなのだ。
 そのヨゴレ(でなければ黒いシミ)に
 意味を与えているのが人間なのである。

 文字が汚れだなんて嫌だなぁ という人は、
 鍵とでも思えばいい。
 文字どおり キーワード となって、
 頭の中の扉をひらく、と。

 文字は 記憶 と むすびつき、また新しい イミ の結晶 をつくる。
 そんなイメージ。

 最初に その本を読む時と、2回目に読む時では、
 とーぜん 時間のズレがある。
 そのあいだ も 人は生き続け、いろんな経験をして、
 新しい記憶も増えている。

 本は自分を映す鏡。
 このあいだ読んだ時には気づかなかった新しい意味が
 同じ本から読み取れた時、
 あぁ、生きているんだなぁ、
 倦(う)んだ日常のようでも、ちゃーんと前に進んでるんだなぁ、
 と実感できる。(ちょっとオーバーか)

 理解とは、1回きり じゃない。
 生きている限り 理解 し続ける。
 何回読んでも 読みすぎ ということはない。

 「読書百遍 意 おのずから 通ず」とは、
 「何回も読まなければいけない」ということではなく、
 「読むたんびに、新しいプレゼント(意味)を本が届けてくれる」
 ということではないか。
 

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ラプンツェル レット ダウン ユア ヘアー

 特に この 童話が好きだ、とか、
 何か教訓を得た、というワケではない。

 ただ、子供の頃(たぶんNHK教育テレビで)見た
 「ラプンツェル(姫)」 に出てきた 魔法使いの お婆さん の
 ラプンツェルプンツェル おまえの髪を 垂らしておくれ
 という声が、今でもナゼか強烈に 耳に残ってるのである。

 そういえば、ワタクシの中では、
 ラプンツェル は、キャベツやレタスみたいな
 結球野菜のイメージがあったのだが、
 実物は、小さい 菜っ葉系の 野菜らしい。
 (お店では、 マーシュ とか コーンサラダ の名前で売られてるそうな)
 なんだか 少しガッカリである。
 

 参考 角川文庫 『完訳 グリム童話Ⅰ』 1999 角川書店
     青空文庫 『ラプンツェル』 2005 http://www.aozora.gr.jp/cards/001091/files/42309_18060.html


         
 
      ラプンツェルの塔              ラプンツェル


         

      ぴんから兄弟           グリム兄弟
 

『ひのまる劇場』と『ストップ!! ひばりくん』

   

 私の思考パターンに近かったから好きになったのか
 影響を受けて現在のような思考パターンになったのか さだかではないが、
 中高生の時に読んだ江口寿史の漫画は衝撃的だった。

 例えば 何かをしている時に、まったく別のことが思い浮かぶことは よくあるけれども、
 江口の漫画では、それが、そのまま表現技法として使われている。
 まるでプログレシヴ・ロックのように、ブツ切れの事柄を繋ぎあわせるのだ。

 上のシーンを読んだ時には、
 ワタクシ達のアタマは、筋道を立てて考えることなどできないのではないか。
 あっちこっち寄り道しながら、飛び石の上を渡るように 進んで行くのではないか。
 そんなことを考えさせられた。


    
 外来語に漢字を当てる というのも、伝統的な日本文化の1つである。
 アメリカ → 亜米利加 もそうだし、もちろん コーヒー → 珈琲 も 然り。

 江口は、コーヒー → 珈琲 珈琲 → 漢字 漢字 → 一刀斎 という連想を働かせたのか、
 珈琲一刀斎というキャラクターを考え出した。
 さらには、一刀斎という響きから古の武術家然とした顔面を作り上げ、
 そこに コーヒー → 洋風 → サングラス という連想をかさねて、 
 ウルトラマンキングのようなルックスを完成させている。

 まるで 演歌のバックでエレキギターがギュイ~ンと哭くような、すばらしいハイブリッド感。
 一見、異なる物事を強引に くっつけているようだが、そこには一種の連想ゲームが働いているのだ。

 このようなことも、ワタクシ達のアタマがよくやることで、
 上のような人物は、神経ネットワークの妙えなる働きが生み出した
 非常に必然性の高い、説得力のあるキャラクターだといえよう。


    
       
    
   
 同じようなパターンを繰り返して、しかも2回目は少しズラす。
 その後 一呼吸置いて、クライマックスへ、という、
 音楽的ともいえる展開が心地いい。


     

 リーゼントを、宇宙戦艦ヤマトの艦首に例える と いう荒業。
 ブッ飛んだ比喩でありながら、深い納得感が得られる。
  
    
    
 ギャグ漫画の中に、突然 劇画調の絵柄が入るパターンは、
 日常会話の中で、「~であります」 などと言うような おかしみに通じるものがある。   
   

    
     
 バイクメーカーと、当時そこから発売されていたスクーターから、
 キャラクターの名前をつけている江口。
 ちなみにワタクシは、その後 ホンダ タクトに乗った。


 以上、江口漫画の中で 印象に残っているシーンをピック・アップしてみた。
 改めて振り返ってみると、江口漫画のギャグは、
 かなりの割合で、私の心の根底をなしていると言っていい。

 「迷ったら江口寿史に返れ」 
 とりあえずは、そういうことだな。


 ジャンプコミックス 『ストップ!!ひばりくん』 ③ 江口寿史 集英社
 1983年 6月15日 第1刷発行
 1983年10月15日 第6刷発行

 ジャンプコミックス 『ひのまる劇場』 ① 江口寿史 集英社
 1981年10月15日 第1刷発行
 1984年12月15日 第15刷発行
 

『詭弁の話術』 阿刀田 高

 高校時代、バスを待つ間のひまつぶしに寄った本屋さんで購入。
 サラリーマン向けの軽い読み物 といった感じのトピック・構成なので、
 週刊誌を手に取るようなラクな気分で読める。
 ただ、純朴な高校生にとって、やや品位に欠ける表現もあるが …

 私に、自分なりの“考え方の癖” があるとすれば、
 この本は その源流の1つになっているのではないかと思う。

 それまで “詭弁” といえば、「へ理屈」
 というイメージがあったのだが、
 著者は言う。
 「詭弁は程度の差こそあれ、どんな弁舌の中にも必ず含まれる
  と。

 それが本当なら、ワタクシ達が言葉を用いているときは いつも
 「詭辯を弄して」いることになる。
 まるで メルヘンかファンタジーのような、すぐには信じられない話だった。

 でも、ちょっとだけ ワクワクした。
 仮に、 すべての言説に詭弁が含まれる とすると、
 今、もっともらしく語られていることは全部、[ こじつけ ] にすぎないことになる。
 これは、とても ありがたかった。
 「偉そうに言ってるけど、所詮 こじつけ だろう」
 と、古い権威を 簡単に否定できるのだから。

 ただ、“詭弁”は、両刃の剣である。
 「どんな弁舌にも必ず含まれる」 のだから、
 相手を否定できるかわりに 自らの説も いっさい保証してくれない。

 そのようなマイナス面があるにもかかわらず、
 今でも この 『詭弁の話術』 はワタクシのバイブルであり続けている。
 それは たぶん、この本が
 「言葉 は ものごと そのもの ではない」 ということを
 改めて気づかせてくれるからだろう。

 言葉 は ものごと そのもの ではない。
 バカバカしいほど当たり前のことだ。
 けれども、時々 ワタクシ達は、
 言葉を まるで ものごと そのもの のように感じてしまうことがある。
 例えば、「ゴキブリ」 と聞いただけで 身震いしてしまう時のように。
 ワタクシ達の中では、言葉 と ものごと そのもの が つながっている。

 “詭弁” は、そのようなヒトの特性に注目して、
 “言葉 ” を変えることで、まるで “ものごと そのもの” が変わったかのような錯覚を
 ヒトに あたえようとする。
 言葉が多義的である(言葉の数は ものごと そのもの の数より少ないから仕方がない)
 ことを利用して意味をスライドさせ、
 意図的に誤解をあたえようとするのである。
 例えば 「レディースの総長」 と言う代わりに 「活発なお嬢さん」 だと紹介するように。

 そういう意味で詭弁は、“言霊“や“暗示”に似ている。

 言葉 は ものごと そのもの ではない。
 そのことは また、ワタクシ達に希望をあたえてもくれる。
 詭弁を弄しても 貧乏人が金持ちになれるとは限らないが、
 「貧乏だから不幸だ」と言って悲しむ気持ちは、なくすことができる。

 “不幸” という言葉によって表わされる状態や、
 “悲しい” という言葉によって表わされる状態は、
 本当はないかもしれないからである。
 もしあったとしても、名前を変えてやれば
 少なくとも、不幸でも 悲しくも なくなる。
 今の状態を わざわざ不幸と名付けなければ、不幸だと思うことはできないのである。

 かなり強引な [ こじつけ ] に思われるかもしれない。
 しかし、
 自分の都合のいいように“解釈”できる
 それが詭弁の いいところでもあるのだ。

 言葉に遊ばれるのをやめて、
 言葉で遊んでやればいい。

 著者が、詭弁を駆使して  ワタクシ達に伝えようとしたのは、
 「詭弁を弄して相手を攻撃せよ」 ということではない。
 “人間愛”というと大袈裟になるけれど、
 「言葉は どのようにでも解釈できるのだから、良いように解釈しようよ」
 「言葉が持っているパワーは、元気になるために使おうよ」
 「こじつけ でもいいじゃないか、自覚していれば」
 そう言っているような気がする。

 拡大解釈かもしれないが、
 ワタクシは この本を そのように読んで、いつも勇気づけられている。


 追記:

 近頃は、すっかり “やさしいおじいちゃん” になられたが、
 当時の“ダンディなオジさま”然とした著者のルックスは、
 この本の文体と内容に非常にマッチしている。

   


  ワニの本 『詭弁の話術』 阿刀田 高 KKベストセラーズ
   1974年7月10日 初版発行
   1984年3月10日 46版発行

『感情はいかにしてつくられるか』 大木幸介

 ワタクシは、どうも感情的な人間のようで、
 気分が良いと、調子に乗って暴走し、
 機嫌が悪くなると、3日くらい引きずってしまう。
 我ながら 非常に めんどくさい奴だ。

 「どうにかならないか」 と思って
 この本を手に取ったのは ハタチ前。
 以来、20年以上経つが、
 いまだにワタクシは感情的な人間である。

 もちろん、だから この本が無意味、と言っている訳ではない。
 [感情]の原因を神経伝達物質に求める、という観点は、
 非常に興味深い。

 この観点の おかげ で、ワタクシは
  [感情] は、“何か訳の判らないもの” が原因なのではなく、カラダの [反応] なのだ。
 と、思えるようになった。

 あくび や おしっこ と いっしょだ。
 眠気や尿意が起こるのは 自然なことであるように、
 感情が起こることも 自然なことなのである。

 眠くなったら寝る、尿意を催したらトイレに行く のであれば、
 感情的になったら、深呼吸でもすることにしよう、
 と 気楽に考えられるようになった。
 (だからといって感情がおさまる訳ではないが)

 あ、それと もう1点 この本から学んだことがある。
 それは、“覚醒系の神経と抑制系の神経が別だ”ということである。

 それまでワタクシは、[興奮している状態] の反対が [落ち着いている状態] だと思っていた。
 「気合を入れるためには落ち着いてなんかいられない」
 「冷静になるためには意気込んではいけない」
 と思っていたのだ。

 だが、覚醒系の神経 と 抑制系の神経 が別だとすると、
 「気合はいってるけど冷静」 という精神状態が可能なのではないか。

 じつは、その後 たった1度だけ、そういう精神状態を体験した。
 自動車学校に通っていて、これに受かれば次は路上だ、という時に。
 人生には もっと大事な局面があっただろうに、なんで この時だったかは不思議だが、
 その時なりに、日常的な精神では対応しきれないような状態だったのだろう。

 ワタクシは、1度きり だったが、のちに聞いた話によると、
 アスリートの方は 「やる気満々なんだけど落ち着いている」状態
 というのを よく経験するそうである。
 な~んだ、そうだったのか。


     

 写真は、カッパブックス 『心がここまでわかってきた』 大木幸介 光文社 より


 講談社現代新書 『感情はいかにしてつくられるか』 大木幸介 講談社
 1983年 1月20日 第1刷発行
 1986年 5月  7日 第2刷発行

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