身近に 「本は1回しか読まない」 という人がいる。
ナンデ?と聞いたら、
「2回目読んでも内容が変わらないから」 だという。
まぁ たしかに、1回目も2回目も、
書いてある 文字 は変わらない。
しか~し、だからといって「内容が変わらない」とは、
南都もったいないことを言うのか。
断言しよう。
1回目と2回目では書いてあることが変わっている。
う~ん、ちょっと言いすぎか
文字などというものは、紙についたヨゴレなのだ。
そのヨゴレ(でなければ黒いシミ)に
意味を与えているのが人間なのである。
文字が汚れだなんて嫌だなぁ という人は、
鍵とでも思えばいい。
文字どおり キーワード となって、
頭の中の扉をひらく、と。
文字は 記憶 と むすびつき、また新しい イミ の結晶 をつくる。
そんなイメージ。
最初に その本を読む時と、2回目に読む時では、
とーぜん 時間のズレがある。
そのあいだ も 人は生き続け、いろんな経験をして、
新しい記憶も増えている。
本は自分を映す鏡。
このあいだ読んだ時には気づかなかった新しい意味が
同じ本から読み取れた時、
あぁ、生きているんだなぁ、
倦(う)んだ日常のようでも、ちゃーんと前に進んでるんだなぁ、
と実感できる。(ちょっとオーバーか)
理解とは、1回きり じゃない。
生きている限り 理解 し続ける。
何回読んでも 読みすぎ ということはない。
「読書百遍 意 おのずから 通ず」とは、
「何回も読まなければいけない」ということではなく、
「読むたんびに、新しいプレゼント(意味)を本が届けてくれる」
ということではないか。
特に この 童話が好きだ、とか、
何か教訓を得た、というワケではない。
ただ、子供の頃(たぶんNHK教育テレビで)見た
「ラプンツェル(姫)」 に出てきた 魔法使いの お婆さん の
ラプンツェル、ラプンツェル おまえの髪を 垂らしておくれ
という声が、今でもナゼか強烈に 耳に残ってるのである。
そういえば、ワタクシの中では、
ラプンツェル は、キャベツやレタスみたいな
結球野菜のイメージがあったのだが、
実物は、小さい 菜っ葉系の 野菜らしい。
(お店では、 マーシュ とか コーンサラダ の名前で売られてるそうな)
なんだか 少しガッカリである。
参考 角川文庫 『完訳 グリム童話Ⅰ』 1999 角川書店
青空文庫 『ラプンツェル』 2005 http://www.aozora.gr.jp/cards/001091/files/42309_18060.html
ラプンツェルの塔 ラプンツェル
ぴんから兄弟 グリム兄弟