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砂漠の九官鳥

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『韓非子』 和氏之璧

 『韓非子』 を “非情の書” という人がいるが、とんでもない。
 『韓非子』 は、悲劇の書 である。
 「これを読んでも泣かない」 という 人こそ、“非情” というものだ。  

 たしかに韓非は、法(法律・法令)と術(法の運用術)を説いた。
 しかし それは、「滅び行く韓を何とか救いたい」 という気持ち からであった。
 彼は、法と術 の採用を上奏したが、韓では取り上げられなかった。

 そのことの くやしさ が もっともよく出ているのが、
 『韓非子』 和氏 篇 である。

  楚の国の和氏(かし)という人が、粗玉を厲王に献上した。
  王が鑑定させると、宝石師は 「これはただの石です」 と言う。
  王は騙されたと思い、和氏の左足を切った。

  厲王が亡くなり、武王が即位したので、和氏は また粗玉を献上した。
  武王が鑑定させると、宝石師は 「これはただの石です」 と言う。
  王は騙されたと思い、和氏の右足を切った。

  武王が亡くなり、文王が即位した。和氏は粗玉を抱いて泣いた。
  三日三晩経つと涙が尽きて血を流した。
  王はそれを聞き、人を遣わして訳を尋ねさせた。
  「世の中に足を切られた者は多い。なぜそんなに泣いているのか」
  和氏は言った。
  「足を切られたことが悲しいのではありません。宝石が石ころだと言われ、詐欺師扱いされたことが悲しいのです」
 
  王はその粗玉を磨かせ、宝を得た。それが 和氏之璧 である。

 このエピソードを読んだ時、ワタクシの目には 思わず涙が にじんでいた。
 とても切ない気持ちになった。
 韓非は和氏に自己の境遇を かさねたのかもしれない。

 このあとの文で 韓非は、
 「宝でさえ認められるのは困難」(まして“法と術”を王が欲しがるだろうか)
 と嘆いているが、
 彼は内心
 「“法と術”こそが最高の宝(和氏之璧)なのだから、いつかきっと日の目を見るに違いない」
 と思っていたのではなかろうか。

  たとえ今は認められていなくても、
  あなたが持っているのは、間違いなく宝物だよ。

 和氏之璧 は、そういって韓非を励ますばかりではなく、
 不遇を囲う すべての人を励ましてくれているのかもしれない。


    


 さて、韓では ついに認められなかった韓非だが、
 やがて秦王政(のちの始皇帝)に気に入られることになる。
 だがそれは、新たな悲劇の始まりだった。


 参照 『韓非子』 西野広祥 市川宏(訳注) 徳間書店
     1996年 3月31日 第3版第1刷
     1998年10月 5日 第3版第3刷
 

                                         今回も、かなり強引だったな。
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『ボクはこんなことを考えている』 大槻ケンヂ

 筋肉少女帯というバンドの
 「日本印度化計画」 という曲は、
 音楽史上 1、2を争うほどの おバカな曲である。
 (もちろん これは ほめているのである。)

 ♪俺にカレーを食わせろぉ~ 俺は いつでも、辛さに こだわるゼェ~♪
 あぁ、なんと内容のない詞なのだろう。

 このバンドで ヴォーカル・作詞を担当しているのが、
 大槻ケンヂ 氏。

  

 こんな詞を書く、こんな歌を歌う、大槻ケンヂとは、如何なる人物か。
 それを知るための恰好の入門書が、
 『ボクはこんなことを考えている』 である。

 オーケンは、本も書く。
 世間には、大槻ケンヂを ヴォーカリストではなく、
 作家先生だと思っている人も多いとか。

 この本の中で、オーケンは おおいに悩み、藻掻いている。

 といっても、別に大きな事件・事故で苦しんでいるわけではない。
 「のほほ~ん」と生きたい と望んでいるのに、 ささいなことに こだわり、
 バカみたいなことを考えながら、悪戦苦闘、試行錯誤、しているのである。

 だが、
 振り返ってみれば、私の行なっていることや 考えていることも、
 他の人にとっては「なんで あんなバカげたことを …」
 というようなことなのだ。

 バカボンパパも大槻氏も言っているように
 「それでいいのだ」。


 角川文庫 『ボクはこんなことを考えている』 大槻ケンヂ 角川書店
 1996年 3月25日 初版発行
 1998年 3月15日 10版発行

 なお、大槻氏の書くエッセイは、どれも面白いが、
 歌詞には深刻なものも多い。(だからこそ、悩める少年少女のカリスマなのだが)
 もしCDを聴く機会があっても、フォースの暗黒面に支配されないように。(ダースベイダーか?)

『<自己発見>の心理学』 国分康孝

 [ まえがき ] から いきなり衝撃的!
  ― 考え方次第で悩みは消える ― と きた。
 以下、

  ~人生が思うとおりにならなくて気持ちが落ち込んだり、自信がなくなったりするのが 悩み である。
     悩みのない人間はいない。
    なぜならば、世の中は個人のためにつくられたものではないからである。
     したがって注文どおりには動いてくれない。~

 と続く。 
 そして著者は、「ふだん何となく信じていた考え方を再検討してみよう」 と述べ
 “論理療法” を紹介する。

  ~原理Ⅰ 出来事そのものよりも、受けとめ方が大切

    原理Ⅱ “ビリーフ”が悩みの源泉
         感情は思考の産物。
         思考は心の中の文章記述。
         ゆえに悩みがある時は、悩みを生み出しているビリーフ(文章記述)を発見すること。
         思考と感情は独立した別物のように思いがちだが、そうではない。

   原理Ⅲ 事実と論理性のあるビリーフ
         事実に基づかないビリーフのために自他を不幸にするのはナンセンス。
         自分の文章記述の中に「~だから―」とある時は注意。
         因果関係というのは意外に単純ではない。

   原理Ⅳ 人を幸福にするビリーフ  
         事実に基づかず、論理性に乏しい文章記述でも、
         人を幸福にするものであれば一笑に付すわけにはいかない。
         例えば信仰、暗示など。
         問題を解くのに役立つ文章記述は是認したほうがよい。

   原理Ⅴ 「ねばならぬ」思考からの解放
         「どうしても … でなければならぬ」という事柄は意外に少ない。
         大部分は「 … であるにこしたことはない」という類のものである。
         断定的な文章記述がある場合は、
        ① 拡大解釈の度がすぎていないか
        ② 解釈を事実のごとく記述していないか 注意。

   原理Ⅵ 状況変容の努力
         ビリーフを変えればすべてOK ではない。
         「心頭滅却すれば火もまた涼し」というが、水をかけられるなら、そのほうがより効果的。
         認知を変えるだけでなく、行動そのものを変える発想も持とう。


 ながながと箇条書きで書いてしまったが、いや~、じつに面白い。
       でマーキングした箇所、
 特に 「感情は思考の産物」というところには、
 ハッとさせられた。

 感情とは、機能的には 環境の変化に対する身体側の反応
 だとワタクシは考えているが、
 たしかに 環境の変化を どのように捉えるか(認識するか)という問題は大きい。
 考え方を変えれば、感情が爆発せずに済む場合も多いだろう。
 (ただ、「思考がなければ感情が生まれない」とまでは思わないけれども。)

 ま、感情も思考も、同じく脳の中で発生するとすれば、
 影響をあたえても ちっとも おかしくない とは言えるだろう。


 付記:
 わかりやすくするためだろうけれど、この本の中の
 「世の中」とか「注文」 など、 あいまいな(あるいは情緒的な)表現が ちょっと気になる。
 内容には ものすごく納得し、感動しただけに、ちょっと残念。



  


 講談社現代新書 『<自己発見>の心理学』 国分康孝 講談社
  1991年 3月20日 第1刷発行

 同じく講談社現代新書の、『自己変革の心理学』 伊藤順康  も、面白かった。
 やはり論理療法について書いた本だが、少し雰囲気が違う。
 (別人が書いたのだから当然だが)



  ちなみに、この人が論理療法の創始者 アルバート・エリス     いいツラ構えだ。

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